当稲荷神社は旧幕時代、山城の国淀の城主(現京都府伏見区淀町・十万二千石)稲葉丹後之守(三代将軍家光の乳人 春日局の後裔)の江戸小川丁中屋敷内に祀られてあったもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し、代々五穀豊穣武運長久を祈願された由緒ある神社と伝えられています。明治維新後は、この地に商家町民移り住み、町の名も小川町一番地となったことから、町内の守護神として、伏見稲荷大社より霊を勧進し、近隣氏子有志によって新しくお社を覆う社殿を建立。現存のお社も江戸時代徳川家斉公の時代のものと推測される貴重な建造物です。このお社には、江戸時代から屋根を掛けられ、雨風を防いでいた模様で、大正時代の絵はがきや関東大震災後の写真には、お社を覆う社殿が写っています。大震災の折、倒壊した石の鳥居左柱には文化四年丁卯年二月初午、右柱には慶応三卯年二月再建の文字、またこの混乱の中、行方の判らなくなった水舎の石盥水盤(口手を清める水盤)には元禄十四年奉納と刻まれていたという記録も残っています。 昭和二十一年、敗戦により大きな町会組織であった小川町北部町会が解散され、現在の四つの町会(小川町北部一丁目町会、北部二丁目町会、北三町会、三丁目西町会)に分割された時、古老総代は神社の廃絶をおしみ、幸徳稲荷神社奉信会を結成、さらに昭和四十三年には「幸徳会館」を建設し、二階に社を移して宗教法人化し、代表役員、責任役員を各町会から選出し、合議により維持管理、町会相互の連絡親睦と一層崇敬を深めつつ、現在に至って居ります。 毎年二月三日に神田神社より神職を招き、節分祭を挙行。また神田神社の大祭に合わせて、隔年五月に修祓式と神輿の町内巡幸および神田神社への宮入参拝を行い、守護神様への感謝の気持ちを表す大祭を催行しています。
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