この辺り一帯を屋敷にしていた稲葉家の重臣が銭湯を開くということで大騒ぎになったそうですが、時代を読んで決断をしたと伝えられています。「楼」は高い建物を表す言葉であったようですが、家柄の高さから周辺からは異論が出なかったとか、「稲川楼」の「稲」は稲葉家から「川」は小川町からと伝えられています。明治2年の創業。かつては靖国通りに面してあったようで、版画の右側3軒目の石の塀と門柱のある建物がこの銭湯です(現在の原久洋服店やヴィクトリアエルブレス)。その後、裏通りに移つり、戦争で焼けて煙突とタイルの浴槽だけが焼け野原に残っていましたが、やがて再建。平成4年に店を閉じるまで、実に123年ものあいだ営業を続けた、地域にとてもなじみの深い銭湯でした。子どもの頃に、ふざけて洗い場を走ると、ご近所の大人に濡れた手ぬぐいでパシッとふくらはぎを叩かれたこと、大人湯の浴槽に水を入れて「うめるんじゃねぇ」と怒られたこと、大人になってからは、祭が終わると「風呂券」が配られ、稲川楼でひとっ風呂浴びて、神輿でかいた汗を流し、直会(なおらい)宴会をしたことが懐かしく思い出されます。平成の現在は「平和堂ビル」駐車場となっています。
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